社長エッセイ

「貧困削減」とは?

 業務を通じて、特に近年は「貧困削減」あるいは「貧困緩和」を目的とした調査なりプロジェクトに関与することが多くなってきました。でも実はずうっと以前から、調査の目的として「XX地域の貧困を緩和すること」などと書かれることは多かったように思います。しかし実際のところ、その当時クライアントもコンサルタントも、本気で貧困削減につながると考えてやっていたのか疑わしいところがあります。でも昨今は随分と趣が違いますね。ODA業界全体として本気でこのテーマに取り組み始めた、そんな風に感じています。したがってもちろん我々も、いや我々こそ、「貧困」とは何か、「貧困を削減するとはどういうことか」をますます真剣に考え、体系的に整理し、行動していかなくてはならないと強く感じています。

 「貧困」のとらえ方は実に様々、人それぞれで大きく違います。収入がない、あるいは収入が低いことイコール(経済的)貧困という理解は一般的だと思いますが、それだけが貧困か、あるいは他の何を合わせて貧困とするのか、となれば議論百出でしょう。アマルティア・センは、個々人が基本的な自由を享受できるかどうか、つまり民主主義や人権を重視して貧困を論じています。ご承知のとおりJICAでも、「貧困削減」というテーマで開発課題に対する効果的アプローチをまとめています。まあ私には、あくまで官製の仕組み(=ODA)の枠内でのアプローチだと映りますが、一方で、ODA業界にいる我々にとっては知っておかなければならない貴重な資料でもあると思います。その他、あちこちで「貧困」が論じられてはいますが、その定義が明確になっているわけではありませんね。おそらく明確になることはこれからもないのでしょう。

 それは「貧困」とはたぶんに主観的な要素が強い、つまりその人が自分の置かれた状況をどうとらえるかによるところが大きいためであり、我々が貧困を扱う場合もまずそこを出発点にすべき、というのが私の一個人としての考えです。そして「貧困削減」とは、自らの状況を「貧困」だととらえた人々が、何とかしたいと考え自らの意思で解決を図ろうとすることであり、我々はそれを側面支援する存在に過ぎない、とも思っています。そんなことを考えていると、草苅さんが国連フォーラムのサイトで興味深いことを書いているのを目にしました(http://unforum.org/field_essays/13.html)。いわく、『(外部者として)負の側面を強調し過ぎることへのセンシティビティをどれだけ持てるかということです。(中略)「貧困」というコトバを当事者とのやりとりで頻繁に使用することは、自信の喪失にもつながりかねないという危険性を常に認識しておく必要があります。(中略)例えば、ある日突然ヨソ者がやってきて、「あなたは貧乏で無力で問題も山積していますが、我々の分析によるとそれらの問題の中でもコレが一番深刻です、こういうアプローチで助けてあげることにしました、だからこの活動に参加しなさい」と言われたら、どう感じるだろうか。私だったらきっと反感を覚えるんじゃないかな。余計なお世話だ、と怒りすら覚えるかもしれない。』

 我々はあくまで外部者であるということ、そして外部者としての謙虚さと、外部者だからこそできる強力な支援とのバランスをとることが重要だということですね。私自身、業務を通じて色々な方と「貧困」を議論していても、実はこの点が抜け落ちていることがとても多いように感じます。意識していても、いつの間にか外部者の論理で物事を進めようとしているんですね。だからいつまでたっても「持続的開発」なんてことを言わなくてはならない。当然ですよね、よそ者が勝手に論理を持ち込んでやっているんですから。長続きする訳がない。そもそもまず、寄って立つ所が違うのだと思います。

 現在ミャンマーで貧困削減のプロジェクトに関わっていることもあり、このテーマは私にとって今が旬です。また会社として、これからODAの枠組みを超えたところで地域づくり事業を本格的に展開していきたいと考えていることもあり、私なりにもっときちんと頭を整理しておかなければならないテーマでもあります。これからももっと勉強し、調査やプロジェクトでも試行錯誤し、皆さんとも議論を重ねながら、KMCとしての「貧困」とは、「貧困削減」とは何か、その寄って立つべき所を明確にしていければと願っています。