社長エッセイ

【部長シリーズ第14回】企画管理部長:コミュニケーションはゆったりと

私たちは普段、言葉を使ってコミュニケーションしています。でも、その言葉が相手に伝わらない、と感じることは少なくないのではないでしょうか。日本語を母国語とする者同士で、専門用語でもない、ごく普通の日本語で話していても理解に齟齬が生まれることはよくあります。

一休さんが、橋のたもとにある立札に「このはし渡るべからず」と書いてあったにもかかわらず、真ん中を渡った、という昔話をご存知の方も多いと思います。これは、この立札を立てた者の意図を完全に理解していた一休さんによる確信犯的な行動であり、理解に齟齬があったわけではありませんが、こんな単純な言葉でも受け取った側が想定外の反応や動きをとることがあるという、分かり易い例ではないかと思います。ましてやもっと複雑な内容を伝え合う日常のコミュニケーションでは、相手にこちらの意図が伝わっているかどうかわからない、という態度で居る方が精神衛生上健全かも知れません。

かつて参加したコーチング研修で、講師から「自分が発したコミュニケーションの意味は、それを受け取った相手の反応で初めてわかる」と教えられたことがあります。自分が何を発したかは、自分がそもそも持っていた意味や意図と関係なく、相手の反応で決まるという、当時の自分からするとコペルニクス的な見解に軽いショックを受けたのを覚えています。
ショックを受けてしまったのは、当時はまだ若く、自己中心的なものの見方しかしていなかったため、こちらの意図が伝わらないのは、相手の理解力不足が原因だと思っていたからでしょう。そのため迷惑をかけた方が少なからずいたかと思うと、今更ながら反省しきりです。さて、そもそも何故こんなズレが起きるのでしょうか。その原因の一つは体験の違いだと思っています。

ヘレン・ケラーが「water」という言葉を覚える過程で、サリバン先生はヘレンに水を触らせながら、一方の手の平に「water」と綴って覚えさせたというお話があります。ということは、水とは違うものを体験させながら手の平に「water」と綴ってやると、ヘレンは水とは異なるものを「water」と覚えたに違いありません。
このことから、体験と言葉の理解は強く結びついていることが分かります。とすると、言葉を発する時にも、脳や体のどこかでその言葉に紐つく何かの体験を想起しているのではないか、と推測することができます。
ここに言葉の相互理解にズレがおきる原因があるように思えてなりません。というのも、同じ言葉を使ったとしても、その言葉に紐つけて想起している体験が100%同じ人はいないと思うからです。必然的に、言葉を駆使して行う会話や文書でのコミュニケーションも、発する側が想起していることと、受け取る側が想起するものが同じであるはずがありません。

では、そんな中でもお互いの理解を近づけるにはどうしたらよいでしょうか。
ここはやはり、「自分が発したコミュニケーションの意味は、それを受け取った相手の反応で初めてわかる」という前提に立ち、発した側は自分の意図と相手の反応が異なってもある程度当然と思って更にコミュニケーションを図り、受け取った側は自分の理解と相手の意図は合っているのかということに気を付けて確認し合うこと以外にないのではないかと思います。
お互いのそれまで別々に経験してきた人生の膨大な情報を氷山にたとえるなら、水面に出た一角がコミュニケーションやそれに対する反応だと思います。海を漂う氷山のように、ゆったりした気持ちを保ちつつ、気持ちの良いコミュニケーションを心がけたいと思います。